伏見稲荷大社

http://inari.jp/

世界最大の旅行サイト トリップアドバイザーで外国人に人気の旅行スポットとして毎年第一の伏見稲荷大社に行って来ました。

JR京都駅から奈良行きに乗って二駅目の稲荷駅を降りると目の前に朱色の鳥居がそびえて立っています。

あまりに人が多くって途切れることもないので写真にも人 人 人が入ってきます。

伏見稲荷大社は全国に約3万と言われる稲荷社の総本宮で商売繁盛の神様です。

奈良時代 餅を矢で射たところ餅が白い鳥になって稲荷山の峰に飛んで稲が生えたといい五穀豊穣を願って稲荷山に神様を祀ったことがはじまりだそうです。

境内には鮮やかな朱色の鳥居と神様の使いである狐がいたるところに見ることが出来ます。

千本鳥居をくぐって奥社までは5分くらい。

鳥居の下をおびただしい人が歩いています。

奥社にはおもかる石がありました。

奥社から一之峰を目指して約4キロのお山コースは二時間かかるそうです。

余りの暑さにお山コースはパスして参道のお店を覗きながら駅まで歩きます。

名物のうずら焼きや雀焼きが売られていて外国からの観光客は食べながら歩いています。

稲荷大社というだけに、参道の食堂でもいなり寿司とセットになった蕎麦やうどんが多くみられました。

夏ではなくて秋にお参りした、良かったと思ったのでした。

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東寺の弘法市と京大の時計台

今日は弘法市なので東寺にやって来ました。

外国からの観光客も多くお着物を売っているお店にもたくさんいました。

東寺の蓮池の蓮も満開です。

京都駅から17番のバスに乗って百万遍に移動しました。

京大のシンボルの時計台の一階にあるイタリアンレストラン  でランチを頂く予定なのです。

La Tourはその名前の通り 時計台の塔のようです。

折しも京大の歴史展示室の特別企画展では時計台の今と昔の展示でした。

当時の懐かしい写真もありました。

改装した内部ですが、建築された当時ののデザインが生かされているようです。

大学生活の四年間 一度もこの内部に入れなかった時代の人もいたようなのですがそんな出来事も思い出です。

百万遍から てくてくと河原町三条を目指して歩いていると高倉通りの二条から御池通りの間に足利尊氏の邸宅跡の石碑を見つけました。

以前行った衣笠山の花園界隈にあった等持院もかつてはこの場所にあったみたいです。

また御池と高倉通りにめんして立つ御所八幡宮は尊氏が自宅の守り神として勧進したそうです。

尊氏の戒名から等持八幡ともその場所から高倉八幡とも虫八幡(安産や子供の疳の虫封じ)とも呼ばれるそうです。

新しい発見に暑さで疲れた足取りも少し軽くなりました。

日が暮れて 先斗町あたりを歩いて四条河原町にやって来ました。

先斗町の細い通りから鴨川の流れと四条大橋が見えました。

橋の上に出ると川床や川原に座っている人々が見えます。

はれまで山椒ちりめんを買い大好きなかき氷を食べて涼を取りました。

銀閣寺とカフェ

東山慈照寺 銀閣寺 は、室町幕府 八代将軍足利義政が1482年に祖父 足利義満が金閣寺を建てたことにならい、山荘東山殿を造営し銀閣寺の発祥になっています。

銀閣寺垣と呼ばれる石積みと竹と生け垣の三層の垣根の道を歩いて行きます。
国宝 観音殿

国宝 東求堂

義政のお茶に使われた湧水は今でも湧いていました。

たくさんの外国からの観光客で賑わっていました。

銀閣寺を後にして小腹が空いたのでお菜どころで京都のおばんさいを頂きました。

食事のあとのお茶は日本画家 橋本関雪の芸術の拠点としていた白砂村荘のお隣にあるNOANOAで。

こちらは橋本関雪が1929年に建てた洋館を1970年にイタリアンレストランとして開店した場所でカフェとしても素敵です。

うん十年前  五山送り火の大文字焼きがお庭から良く見えたので送り火の日には大きく浮かびあがる大の字を眺めながら ピザを食べたものでした。

アトリエは今日も見学させてくれました。

思い出の詰まった銀閣寺界隈でした。

一乗寺下リ松から詩仙堂 曼殊院 銀閣寺まで

かつては都の出入口の目印だった一乗寺の下リ松から今日の町歩きは始まります。

一乗寺界隈は京都大学に通う学生さんたちの下宿も多かった場所です。

江戸時代 初期 剣客 宮本武蔵が吉岡一門と決闘したという言い伝えの残る一本松は今は代替わりしていますが、歴史の感じられる場所で、宮本武蔵はこの決闘のあと東寺の観智院にこもり竹林の図や鷲の図を描いたとされています。

下リ松からなだらかな坂を登るとほどなく詩仙堂に到着します。

詩仙堂は徳川家康の側近 石川丈山が1641年に建てた隠居所に始まっています。

寺の名前の由来にもなった「詩仙の間」には中国の三十六歌仙が飾られています。

庭園は美しくいつまでも眺めていられます。

元は田畑を荒らす猪や鹿を追い払うために考案された鹿おどしを石川丈山は趣として取り入れていました。

詩仙堂の側には宮本武蔵が決闘を前に死を覚悟して足を止めたと言われる八大神社があり境内には一乗寺の下リ松の古木と二刀流で構える宮本武蔵の像がありました。

おりしも 八大神社の境内でも地蔵盆が行われていました。

曼殊院に向かう途中 圓光寺がありました。

紅葉で美しい圓光寺は徳川家康が伏見に開いた学問所が始まりでのちに今の場所に移転されました。

こちらには「花の生涯」のヒロイン 村山たか女のお墓や円山応挙の雨竹風竹図や運慶作と伝わる千手観音もあります。

山門をはいると枯山水 「奔龍庭」が広がります。

中門をくぐると苔や紅葉の美しい「十牛之庭」が広がってきます。

澄んだ音色の水琴窟から聴こえる音色が静けさのアクセントになっていました。

紅葉の時には 相当美しいのでないでしょうか?

紅葉が美しいと言えば曼殊院も負けてはいないでしょう。

圓光寺からは約15分くらいあまり人気のない坂道をだらだらと歩いて行きました。

参道の途中には製薬会社の薬草園がありました。

最澄が比叡山に建立し 延暦寺の西塔の北谷にあったそうです。

1656年 良尚法親王の時にこちらに移転され天台宗の五つの門跡の一つだそうです。

庭園 建築も親王の見識創意によるところが多く、江戸時代初期の代表的な書院建築でその様式は桂離宮との関連が深いとか。

国宝の黄不動さまもいらっしゃいました。

坂道を登りきると菊と楓が合体した紋のある勅使門が見えてきました。

天皇などのお客様さの時のみ使用される門で今は閉ざされています。

門から入ると狩野永徳の八方にらみの障壁画がお迎えしてくれる設えです。

かつてはダイアナ妃とチャールズやベッカム、ベネディクト16世 そして天皇皇后両陛下なども訪れています。

昔来た時には 畳などもペコペコであまり整備されてない記憶が残っていますが、今は手入れも行き届いた印象です。

曼殊院の近くには創建859年~877年と伝わる鷺森神社があるみたいです。

参道を示す石碑もひなびていました。

帰り道は雲母坂を歩いていると雲母(きらら)漬老舗のお店が見えてきたので中に入ってみました。

お土産に雲母漬けを購入しました。

一乗寺界隈下り松までもどりこんどは金福寺を目指していると途中に親鸞上人が一時いたという本願寺北山別院がありました。

金福寺は864年に安恵僧都が創建したお寺で松尾芭蕉や与謝蕪村とも関わりが古いお寺だそうで俳句の聖地と呼ばれているそうです。

芭蕉の俳句碑もあります。

与謝蕪村のお墓はもっともっと山の奥に入って行った山頂にあるようです。

お寺の本堂からも界下に京都の町が見えていました。

金福寺をあとにして白川通りを南に向かいました。

銀閣寺道に来ると琵琶湖疎水の疎水分流に沿って哲学の道が伸びています。

浄土寺橋を渡り銀閣寺に向かいました。

因みに一乗寺までは出町柳からの叡山電鉄で向かいましたが、出町柳の駅ではこんなポスターがありました。

全席指定の通勤ライナーが始まるみたいです。

京都の夏の風物詩 地蔵盆と高瀬川の灯籠流し

http://kyo-tsunagu.net/jizo/kyonojizobon/

夏が終わりに近づくと地蔵盆がやって来ます。

地獄の鬼から子供達を守ってくれるお地蔵さまを子供達が供養するのが地蔵盆です。

朝 7時に羽田を出ると、もう9時過ぎには京都の町を歩いていました。

東京の空は曇りがちで富士山も厚い雲から頭だけ出していましたが、京都の町はお天気も良くって良かったです。

その頃には町のあちらこちらでお地蔵さまの供養が始まっている町内がありました。

今日だけでも何ヵ所も地蔵盆を見かけました。

あるとこではお地蔵さまの前にビニールシートを引いて子供達が遊んでいました。

地蔵盆は子供達が主役のお盆なんですね。

日が暮れると高瀬川では灯籠流しが始まりました。

カウントダウンでくす玉が割れると一つ一つ灯籠を高瀬川に流してゆくのです。

まだまだ暑いけれど、暦の上では夏の終わりももうすぐです。

夏のお花たち

6月の東寺の蓮池に咲き始めた蓮の花

三センチほどの切り枝からここまで育った紫陽花

毎年 草むらに見つけるのが楽しみなもじずり

夏の花の女王様の百合

道端で見つけたあざみの花

お寺の境内に咲くききょう

白いききょうの花

ぎぼうしも咲いています。

これは何の花かしら?藤袴にも似てます。

マーガレットに似た黄色いお花はひまわりの小さいバージョンみたい。

そしてなんと言っても夏の花の王様のひまわりは太陽に向かって咲いていました。

真田丸の続きの九度山散策

http://www.kudoyama-kanko.jp/midokoro/spot10.html

前回の大河ドラマの真田丸の締めくくりとして九度山を歩きました。

高野山の入り口の九度山には難波から電車で揺られて約一時間。

九度山の駅は大河ドラマが終わってもまだまだ真田丸の赤備えの仕様でした。

もちろん電車も赤備えです。

この電車難波からは八両連結でしたが、橋本で後ろ四両が切り離されました。

平日の早朝と言うこともあるのか、人気も疎らで真田の道のお店も閉店の所が多いです。

まずは真田いこい茶屋を覗いてみました。

紙で作ったと言う赤備えの兜をかぶって記念撮影してみました。

こちらの大阪夏の陣の屏風

対面石

九度山町のホームページによると

弘法大師は、子供の頃、槇尾山(和泉国)にいて、弁財天を信仰されていました。高野山開山後もその信仰は厚く、毎月九度は和泉の槇尾山に参詣に行かれていました。

ある時、吉野川の水が増水し、大師が渡りかねていると、弁財天が姿を現され、「和泉の国まで参詣するのは大変だろう、この九度山に遷して参ればいい」と、弘法大師に告げたといいます。そのお告げを聞いた場所が、この対面石の前であったことから、この石を対面石というようになったと言われています。また、この「対面石」と言う名と、弘法大師がお母様を大切に思っていらっしゃったこと、大師のお母様も息子を思い遠路はるばる四国から大師の元へお越しになった史実から、この石の前で再会された・対面されたことからついたとも言われています。

とありました。

真田幸村が九度山で暮らしていた庵の真田庵を目指して歩いていると

真田の抜け穴がありました。

こちら 説明によると

そもそもこの穴は古墳で玄室の天井が高いために井戸のように見えて地元の言い伝えでは真田幸村が大阪城に向かう為の抜け穴と言われていたそうです。

そう言えば 大阪の真田丸を歩いた時にも真田丸の抜け穴がありましたね。

真田庵も今日は訪れる人もなくひっそりしています。

庵のあった場所

今でもずいぶんひっそりした場所なので当時はいかばかりかと推測されます。

今日は真田ミュージアムも休館でしたので

道の駅に向かいました。

道の駅のお隣の資料館

雨も降ってきたのですが、せっかくなので女人高野の慈尊院まで歩いて行くことにしました。

途中にあった能光尊

九度山のホームページによると

仏師であった能光尊は、備前(岡山県)の美作郡に生まれ、鳥羽院の時の人で、後に九度山町入郷に居住し、永治元年(1141年)高野山中門の多聞、持国の二天王を彫刻し、その他幾多の仏像を彫刻された偉大な仏師であったそうです。また、鳥羽院の御前において笛をつくり献上されたことも伝えられています。昔から、首から上を病む人にご利益があると言い伝えられ、遠くからもたくさんの人々が訪れます。能光尊のご命日である4月5日には、ご供養にともち投げが開催されています。

慈尊院橋を渡ると直ぐに慈尊院です。

平成16年7月世界遺産に登録された慈尊院は、弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされました。(当時の慈尊院は、今の場所より北側にあり、方6丁の広さがあったと伝えられていますが、天文9年(1540年)紀の川の大洪水にて流失しました。しかし、弥勒堂だけは天文6年(1474年)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれました。

「我が子が開いている山を一目見たい」弘法大師の御母公が香川県の善通寺より訪ねてこられました。しかし、当時の高野山は女人禁制でありましたので、弘法大師の元には行くことができず、この慈尊院で暮らしておられました。

境内には乳癌封じの絵馬がたくさんありました。

慈尊院の境内の奥には

丹生官省符神社の石の鳥居がありここが入り口のようです。

弘法大師が慈尊院を開創した弘仁7年(816年)、その守り神として地元にゆかりのある丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社です。社殿三棟は木造一間社春日造、桧皮葺、極彩色北面で重要文化財に指定されています。

神社ができた当時の位置は、現在の渡し場の東にあたる宮の橋の付近であったと考えられています。その後、河北から高野領地となり、官省符21ヶ所村が成立しますと、その総氏神として栄えてきました。慈尊院の弥勒堂が現在の位置に移された際、この神社も一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移されました。その時、天野神社にならって気比、厳島二神を合わせ祀って四神とし、なお、古くからこの地に鎮座していた天照、八幡、春日の三神を合わせ祀って七社明神としました。

雨も本降りになって来たので またもと来た道を歩いて真田の道まで戻っきました。

松山常次郎記念館も今日はお休み。

九度山町が生んだ政治家松山常次郎氏に関する遺品や資料が展示されており、常次郎氏の功績を後世の者にまで伝えたいという思いで建てられました。

松山常次郎氏は、実業家として、政治家として活躍されました。九度山町から唯一衆議院議員となられた方です。実業家として会社を設立し、韓国に広く水田を開拓しました。その後、衆議院議員に当選し、海軍政務次官などを歴任します。日米開戦を防ごうと努めましたが、開戦。戦後、戦犯として政治の世界を去りました。

建物は常次郎氏のご実家を改装いたしました。

梅下百貨店で真田紐を購入して少しお話をさせて頂きました。

金米の金時像

「米金の金時像」と町民から親しまれているこの像は、明治~大正時代の南紀荘平という陶芸家が作った、高さ2mあまりの陶像です。このような大きな陶像は全国的にも珍しいと言われています。

どこもかしこもお休みでしたが、開いていたモーニングカフェ おやつの時間で

湿度が高くムシムシしていたので、かき氷とプリンを頂きました。

二時間あまりの九度山散策でした。